はらまき

フロファミの小説を書いてみた

time 2019/11/08

「じゃあ、9時半に迎えに来るから」
「うん」
「…分かってると思うけど…」
「分かってる、飲まないって」

「じゃあ」と言い、別れた妻は普通乗用車のエンジンをかけた。日産のマーチ。私と別れた後に買った車だ。自動車はウィンカーを点滅させながら車道に出ると、エンジン音を響かせながら走り去っていった。

そして夕暮れの駐車場には、私と、中学3年生の息子と、小学3年生の娘が残された。

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「よし、行くか」。私は自分に言い聞かせるようにそうつぶやき、二人を連れてフロンパークのゲートをくぐった。5年前とまったく同じ、空気で膨らんだ青いビニールのゲートだ。既に日は暮れかけていたが、フロンパークはたくさんのサポーターで溢れかえっていた。

「すごい人の数だなあ」。私はなるべく明るい声を出しながら、子どもたちに話しかけた。

「父さんが昔フロンターレのサポーターだった頃は、お客さんもまばらで、こんなに賑わってなかったよ」
「……」

息子は不機嫌そうな態度を隠そうともせず、俯きがちに私の少し後ろをついてきた。早く帰りたい、あるいは別行動したいという気持ちが、まざまざと伝わってきた。

「スタグルの種類も増えたなあ。どれもおいしそうだ。啓太、未久、1000円ずつあげるから好きなものを買ってきなさい」
「えっ、いいの?ありがとう、おじさん!」

娘は私から1000円札を受け取ると、近くにあったカレーパン屋へ駆け寄った。そして、出店に貼り出されている写真を真剣な目で見つめ、出店の横の列に並び始めた。息子も同じように私から1000円札を受け取ると、仕方なくという感じで娘の後を追い、一緒にカレーパン屋の列に並び始めた。

「おじさん、か…」

塩ちゃんこの列に並びながら、私はそうつぶやいた。7月だというのに、急に私の胸の間を冷たい風が通り抜けたような気がした。

* * *

早稲田大学を卒業した後、私は富士通の子会社に就職した。

その会社に6年間務めた後、28歳で本社異動が決まり、5年後には課長に昇進した。年収は1千万円を越え、課長になった翌年には武蔵小杉のタワーマンションの23階に居を構えた。リビングの窓からは川崎の街が一望できた。毎週末には川崎フロンターレの試合を観に、歩いて等々力競技場へ通った。はた目には何一つ不自由のない、順風満帆な人生のように見えた事だろう。

だが、中間管理職の重圧は思いのほか大きかった。本心の分からぬ若手社員、仕事を増やすだけの上司、事なかれ主義の幹部たち―。一心不乱に仕事をすればするほど、自分と周りとの壁は厚くなっていった。

そんな中、唯一私が信頼をおいていたのが、部下の山本だった。彼は特に仕事ができるという訳ではないが、実直な青年で、人懐っこいところもあり、社内の人間全員から可愛がられていた。私も彼を可愛がり、彼がミスをすればその穴埋めをし、仕事後には飲みに誘ったりもした。

「課長、うざいんですよね」。そう山本が同僚に言っているのを、ある日私は休憩室の前の廊下で耳にしてしまった。気持ちのいい秋晴れの日の午後だった。彼は私が廊下にいる事には気づいてないようだった。私は肺がせりあがる感覚を覚えた。

「もう4年くらい課長と一緒に仕事してますけど、なんか、課長、俺はお前のこと分かってるぞ、っていう目でよく見てくるんですよ。ホモなんじゃないかと思いますよ、マジで」
「わかる、わかる。体育会系だよな、あのおっさん」
「訳の分かんないサッカーの話ばっかしてきますし。聞いてねえよ、って話ですよ、マジで」

私は休憩室にいる二人にばれないように、そっと足を運んでその場を離れた。心臓が乾いた音を立てていた。

唾を飛ばす上司、冷笑する部下たち、まとまらない企画案、迫る納期―。その日から徐々に、私の中の何かが壊れていった。

* * *

「ほら、チケット」

私はそう言って、7番ゲートの手前で子ども用の観戦チケットを2枚財布から取り出した。

「いいよ、シーチケあるから」

息子はそう言うと、プーマのリュックサックの横についたカードケースをつかみ、係員に見せた。ピッ、という電子音が鳴り、息子はゲートをくぐっていった。娘も同じようにしてハローキティのリュックサックについたカードケースを係員に見せ、ゲートをくぐっていった。

「チケット、あったのか…」

私は小さくため息をついてから、不要となってしまったこども用のチケットをズボンの尻ポケットに突っ込んだ。そして大人用のチケットを取り出し、係員に見せた。中年女性の係員は慣れた手つきでチケットをもぎり、半券を私に返した。

息を切らせながら階段を登ると、少し先で息子と娘が待っていた。私は無理やり笑顔を作ってから階段を登りきり、息子に話しかけた。

「すごいなあ。今はシーチケがICカードになってるのか。昔みんなで来てた頃は、紙のチケットだったのになあ」
「……」

相変わらず返事はない。私が話題を必死になって探していると、コンコースに設置された出店が目に入った。

「ビール 600円」

私は生唾が舌の上にわきあがってくるのを感じた。

* * *

管理職のプレッシャーに押しつぶされそうになった私は、酒に逃げるようになった。

昔からあまり酒に強い方ではなかったが、飲んでいる間は仕事のことを忘れることができた。はじめは夜寝る前に缶ビールを一本あける程度だった。妻は酒が一滴も飲めなかったが、それでもキッチンのテーブルの向かいに座り、笑顔で私の愚痴に付き合ってくれた。だが、缶ビールが二本に増え、三本に増え、ビールがチューハイのストロング缶になり、日本酒になった頃、妻はもうテーブルの向かいに座ってはくれなかった。

妻と子どもたちが出ていったのは、私の38歳の誕生日の前日だった。

「これ以上あなたとは暮らしていけません。さようなら」

キッチンのテーブルに残されたその書置きを見て、私は、それを現実の出来事だと認識する事ができなかった。私が感じたのは、映画を見ている時のような、夢の中にいるような、そんな非現実感だった。私はキッチンのテーブルに座り、両手で顔をおさえた。目をつぶると、初めて妻と出会った日の光景が瞼の裏によみがえってきた。

―FC東京サポーターの歓声がとどろく国立競技場。試合に負け、泣きじゃくる彼女。氷の溶けきったウーロン茶。それを差し出す、私の震える手。恥ずかしがりながらウーロン茶を受け取る彼女―。

書置きをめくると、下には離婚届があった。妻の欄は既に記入されていた。私はズボンのポケットからマールボロを取り出し、箱から1本を取り出して火をつけ、深く煙を吸い込んだ。そして大きく息を吐くと、すっかり黄色く変色してしまったキッチンの天井に煙が溜まった。やがて煙はゆっくりと消え、あとには何も残らなかった。

「病める時も、健やかなる時も…か」

私は1人でそうつぶやくと、テーブルの上にあったボールペンを手に取った。

* * *

「ちょっと」

息子が背中をたたいてきて、私は我に返った。

「そんなところでぼうっとしないでよ」
「ごめん、ごめん」

私は出店の前で立ちつくしていたようだった。娘が怪訝そうにこちらを見ていた。私は「ビール 600円」の文字から目をそらし、再び笑顔を作り直してから二人を連れてコンコースを歩き始めた。

「まいったなあ、ほとんど満席だ」

「もしかして、席とれてないの?」と、息子が眉間にしわをよせながら聞いてきた。

「ごめん、ごめん。こんなに混んでるとは思わなくって」
「……」

「昔はもっと空いてたんだけどなあ…」。言い訳するように1人ごちながら、私は必死に首を振って空席を探した。わきの下に嫌な汗をかくのを感じた。

10分以上歩き回り、やっとのことでバックスタンドの1階席に3人分の空席を見つけた。座席の下に鞄を置き、席に座る。かなりアウェイ寄りの席だったためか、息子はさらに不機嫌になっていた。娘は顔をしかめながら、「疲れた、帰りたい」と文句を言っていた。

「先にご飯、食べようか」。私はそう言ってフロンパークで買ってきた品物を子どもたちに渡した。カレーパンを手渡す時に手が油でベトベトになったが、お手拭きがなかったので、首にかけていたタオルマフラーで手を拭いた。カレーパンを受け取ると、娘は真剣な表情でかじりつき始めた。息子も早いペースでカレーパンをほおばっていたが、その表情は相変わらず不機嫌そうだった。

私は「はあ」と息を吐き、それから腕時計で時間を確認した。18時20分。試合が始まるまで、まだ30分以上もあった。

「飲み物買ってくるよ。何がいい?」
「…コーラ」
「わたしも、コーラ!」

「すぐ買ってくるから、ここで待ってて」。そう言ってから塩ちゃんこを自分の席に置くと、私は逃げるようにして出店へ向かった。

* * *

「子どもとどう接したらいいか分からないんだ」

その日、私は部下の山本と新橋の居酒屋にいた。仕事帰りに私から声をかけたのだ。私が「飲みにいかないか」と誘うと、山本は「いいですよ!」と二つ返事を返した。

「珍しいですね、課長が愚痴を言うなんて」。アジの塩焼きを箸でつつきながら、山本が言った。ブルーのシャツに、黒いネクタイ。髪は短くセットされている。いかにも清潔感のある若手社員という風貌だ。

「家では愚痴ってばかりだよ」。私はそう返すと、皿に盛られた枝豆をひとつつまんだ。
「早稲田卒でも、愚痴るんですね」
「愚痴るんだよ、早稲田卒でも」

店員が私たちのテーブルにやってきて、飲み物の追加はないかと聞いてきた。私は「生を」と言い、空になったジョッキを店員に手渡した。それからまた枝豆をつまみ始めた。

「子どもとどう接したらいいか分からないって…、お子さん、いま何歳なんですか?」
「上の子が9歳で、下の子が3歳」
「へえ、じゃあまだ可愛い盛りじゃないですか。何が問題なんですか?」

私は枝豆をむく手を止めて、言った。

「初めて長男が喋った時、正直言って、俺は怖いと思った」
「怖い?」山本が怪訝そうにこちらの顔を見ながら聞いてきた。

「うん、怖かった。なんというか、『ああ、これでこの子もついに自我を持ったんだな』と思った。もちろん、言葉をしゃべる前から子どもにも自我はある。だけど、息子が声に出して母親を呼んだ瞬間、俺は、急に子どものことが怖くなったんだ」
「なんでですか?」
「なんでだろうな…。多分、1人の人間として息子と向き合わなくてはならなくなる事が怖かったんだ。そして、そういう状況に自分が追い込まれる事が怖かったんだ」

「俺子どもいないから、よく分からないです」と笑い、山本はアジの塩焼きを美味そうにほおばった。

* * *

「お待たせ」

左手にウーロン茶、右手にコーラ二つを持って帰ってきた私は、こぼさないように慎重にコーラを手渡した。娘は「ありがとう、おじさん」と言ってそれを受け取った。息子はコーラを受け取る時に、首を2mmくらい傾けた。

そこで、突然大きな歓声がわきあがった。川崎フロンターレのスターティングメンバーが発表されたのだ。オーロラビジョンに映された映像を見て、私は驚愕した。

「憲剛が、監督になってるのか!」

「うん」。息子がぶっきらぼうに返事をした。

「いやあ、いつか監督になるだろうと昔から思っていたけど、本当に監督になったとは。すごいなあ!」私は興奮した口調で言った。「そうか、憲剛が監督か!」

オーロラビジョンに表示された選手一覧の中には、かつて私があしげくスタジアムに通っていた頃、汗だくになって応援していた選手たちの名前がいくつかあった。そして、そこには彼の名前もあった。

「長谷川竜也…」

思わずそうつぶやくと、息子がちらりと私の顔を見上げた。

長谷川竜也は、妻が大好きだった選手だ。まだ家族で等々力に通っていたころ、彼女は毎年彼の背番号のユニフォームを買っていた。妻は、彼がボールを持つ度に黄色い歓声を上げ、彼がファウルを受ける度に声を荒げ、彼のシュートが外れる度に落胆したものだった。

「長谷川も、まだフロンターレにいてくれてるんだな」
「うん、いるよ」

息子の素直な返事に驚き、私は彼の顔を見た。息子はなんだか、そわそわしているようだった。よく見ると、彼の首には長谷川の背番号である16番のタオルマフラーがさげられていた。

「好きなのか、長谷川」
「うん」
「長谷川のポジション、どこだったっけ」
「左サイドハーフ。でもたまに右サイドもやる」
「詳しいなあ」
「俺も左サイドハーフだから」

「俺」?去年会った時には、息子の一人称は「僕」だった。それがたったの1年で「俺」になっている。私はなんだか、自分が浦島太郎になったような気がした。

「ピーッ!」

主審の笛が鳴り響き、試合が始まった。相手はモンテディオ山形だ。ボールを持ったフロンターレの選手たちが、小気味のよいパスを回し始める。

「サッカー部、大変か?」私はウーロン茶をストローで飲みながら、息子に聞いてみた。

「みんな、でかいやつばっかりで、競り合っても全然勝てない。めちゃくちゃ削ってくるし」

「えっ?なんて?」。サポーターの歓声でよく聞こえなかったため、私は聞き返した。

「中学、でかいやつ、ばっか!」。息子が大きな声で言い直した。

「確かに、今の中学生って大きいもんなあ!」
「でかすぎる。マジ、ふざけんなって思う!」

そこで私はいつの間にか、ごく自然に息子と会話できている自分に気がついた。そんな風に感じたのは、生まれて初めてのことだった。私は隣に座った息子と、娘を交互に見た。

「啓太、未久、ごめんな」

私がそう言おうとしたところで、突然フロンターレサポーターの歓声がひときわ大きくなった。ピッチに目を向けると、長谷川がドリブルをしながら左サイドを駆け上がっていた。

「タツヤ!いけ、タツヤ!」と息子が声を張り上げる。フロンパークを歩いていた時とは別人のようだ。私も昔熱心に応援していた頃を思い出し、「長谷川!」と声をあげた。

その時だった。

左サイドで相手ディフェンダーと対峙した長谷川は、相手のマークをフェイントで交わすと、ペナルティエリアの外から左足を振りぬいた。ボールはキーパーの手をすり抜けて、ゴールのサイドネットを揺らした。

一瞬だけ、会場が静まり返った。

そして、割れんばかりの歓声が響いた。

抱き合って喜ぶ川崎の選手たち。スタジアムDJによるゴールのアナウンス。フロンターレサポーターによるチャントの大合唱―。

私は、昔の癖で隣の席の人とハイタッチしようとした。それから、隣にいるのが自分の息子であることを思い出した。私が上げた両手を引っ込めようか、どうしようかと迷っていると、息子は照れくさそうにしながら、ハイタッチに応じてくれた。

「パチン!」

等々力の夜空に、軽快な音が鳴り響いた。

* * *

試合は、1-1で引き分けだった。前半に長谷川が先制点を決めるも、後半のアディショナルタイムに追いつかれてしまったのだ。

選手がロッカールームに引きあげる姿を見ながら、私は「ああ、惜しかったなあ」と言った。

「なんか最近、アディショナルタイムに追いつかれちゃうんだよね」。両手を頭の後ろで組みながら、息子が言った。

「そうなのか」
「うん。詰めが甘いんだよ」

そう言いながらも、息子はとても楽しそうだった。

* * *

「うん、わかった。今から駐車場に向かうから。うん。じゃあ」

通話を切ると、私はスマートフォンの画面に表示された時刻を確認した。21時30分。試合が終わって20分以上経つが、いまだ競技場周辺に人の数は多かった。

私が「お母さん、もう着いてるって」と言うと、息子は「うん」と俯きながら答えた。たくさん歩き回ったせいか、娘は明らかに眠そうだった。

「長谷川、すごかったな」
「うん」
「背が低くても、あれだけやれるんだな」
「ああいう選手に俺もなりたい」

私は息子の顔を見た。彼は真剣な表情で、じっと足元を見つめていた。

「啓太、プロになりたいのか」
「うん」
「応援してるよ」
「うん」

駐車場に到着すると、そこには既に別れた妻の車があった。腕時計を見ると、時刻は21時40分になっていた。

近寄ってきた私たちを見て、別れた妻が車から出てきた。私は「遅くなってごめん」と彼女に謝った。

「大丈夫。試合、勝った?」
「引き分け。でも、長谷川が決めたよ」

それを聞いて、彼女の口角が少し緩んだ。それから、付け加えるように「そう」と言った。

「…飲んだ?」
「飲んでない」
「そう…」

別れた妻は子どもたちと私を交互に見た。彼女は私に何か言いたい事があるようだった。しかし、結局は彼女は何も言わなかった。それから車に子どもたちを乗せ、運転席の窓を開けた。ハンドルにかけた左手の薬指には、白く光る指輪が見えた。

「じゃあ」と別れた妻が言った。

「うん」と私は言った。

ブルルルン、という低いエンジン音が響いた。3人の乗った車はスルスルと動き始め、駐車場の出口に止まった。それからウィンカーを出しながら車道に出るタイミングをうかがい、やがて右折していった。徐々に車のテールランプは小さくなり、やがて完全に見えなくなった。

私は生垣に腰をかけ、手に持っていたビニール袋から、すっかり冷えてしまった塩ちゃんこを取り出した。

そして袋から割りばしを取り出して割り、少し硬くなった麺をすすり始めた。

どうして、酒に溺れてしまったんだろう。

どうして、家族と真剣に向き合ってこなかったのだろう。

どうして、家庭を壊してしまったのだろう。

どうして―。

ありとあらゆる後悔が押し寄せては消え、また押し寄せては消えていった。私が失ったものの大きさを考えると、涙が止まらなかった。それはもう、二度と戻らないのだ。二度と。

5年ぶりに食べた塩ちゃんこは、昔よりしょっぱい味がした。

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小川まさお(オガ)

小川まさお(オガ)

漫画家です。
週刊少年チャンピオンで「はらまき」を連載してました。
猫と川崎フロンターレが好きです。
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